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東京地方裁判所 昭和53年(ワ)3860号 判決 1983年2月17日

原告

伊藤伸樹

原告

伊藤光子

右両名訴訟代理人

助川裕

被告

医療法人財団河北総合病院

右代表者理事

南部銀雄

右訴訟代理人

饗庭忠男

小堺堅吾

主文

一  原告らの請求をいずれも棄却する。

二  訴訟費用は原告らの負担とする。

事実《省略》

理由

一請求の原因1の事実及び正章と被告との間で診療契約が成立したことは当事者間に争いがない。そして、正章は、昭和五二年四月一二日から同月一四日にかけて、被告河北病院小児科で中島医師の診察を受け、請求の原因3(三)及び(四)記載の経緯を経て死亡したことも当事者間に争いがない。

二原告らは、中島医師に、正章の虫垂炎を早期に発見できなかつた過失があると主張する。

前記当事者間に争いのない事実並びに鑑定の結果及び証人志賀厳の証言によれば、正章は、昭和五二年四月一二日の初診時に既に虫垂炎に罹患していたものと認めることができ、これを覆えすに足りる証拠はない。

そこで、判断するに、<証拠>によれば、同月一二日及び同月一三日の正章の症状及び中島医師の診察状況は以下のとおりであつたと認められる。

1  正章は、同月一二日朝、元気がなく、鼻出血、微熱(午前七時頃に三六度六分、午前一〇時頃には三八度三分。)があり、嘔吐していたため、原告光子に連れられ、同日午前一〇時過ぎ、被告河北病院小児科で中島医師の診察を受けた。正章の診察所見は、胸部所見異常なく、咽頭発赤あり、腹部軟で筋性防禦なく、マックバーネ点の圧痛、ロブシング症状ともに認められなかつた。検査所見としてはアセトン尿を認めた。中島医師は、右の所見及び原告光子からの問診の結果から、正章を扁桃炎とこれに誘発された自家中毒症と診断し、抗生物質アモキシシリン(パセトシン)を投薬し、ブドウ糖等の静注を施行した。また、採血し、血液学的一般検査を行い、翌日の来院を指示した(このうち、血液検査が行なわれたことは当事者間に争いがない。)。

2  翌一三日朝、正章は四〇度の発熱があり、鼻出血があつたが、嘔吐はなかつた。同日午前一〇時過ぎに、正章は再度中島医師の診察を受けた。所見としては、咽頭の扁桃腫大、発赤を認めるほか、胸部に病的所見はなく、腹部についても、筋性防禦なく、マックバーネ点の圧痛、ブルンベルグ症状、ロブシング症状ともに認められなかつた。また、前日施行した血液検査の結果、白血球増多症(二万三九〇〇)と好中球増多、核の左方移動が認められた。前日に引き続き、尿中にアセトン体が認められた。治療としては、中島医師は、前日に投薬した抗生物質の服用を重ねて指示し、ブドウ糖等の静注を施行して経過観察を行なうことにした。

正章は、帰宅後も発熱が続いたほかは特に症状に変化はなく、比較的元気で、嘔気もなくおかゆ等を食べたが、同日午後八時頃、排尿時に一時腹痛を訴えた(このうち、血液検査の結果については当事者間に争いがない。)。

原告らは、中島医師の診察時間やカルテの記載の不自然さを根拠として、中島医師は、マックバーネ点、ブルンベルグ症状、ロブシング症状の検査を行なわなかつたと主張するが、原告伊藤光子本人尋問の結果によつても、中島医師の診察時間がこれらの検査を行うに足りないものであつたとは認められないし、同月一二日ないし同月一四日のカルテ(乙第一六号証)の記載が、それまでの正章のカルテ(乙第一一号証ないし第一五号証及び第一九、二〇号証)の記載と比べ特に不自然であるとも認め難く、他に前記認定を覆えすに足りる証拠はない。<証拠>によれば、同月一四日の手術の開腹所見によれば、正章は虫垂が後腹壁の腹膜下、後上方(盲腸の後背部)に埋没していたことが認められ、正章が腹部症状を示さなかつたのは、このような虫垂の位置異常が原因と考えられる。

ところで、小児の虫垂炎の症状及び診断については、<証拠>によれば、以下の事実を認めることができ、これに反する証拠はない。すなわち、小児の虫垂炎の症状は、若干成人と異なる臨床像を示し、診断が困難なこともあるが、その症状は基本的には成人のそれと同様であつて、自発腹痛、発熱、嘔吐等の自覚症状、局所圧痛、筋性防禦、白血球増多等の他覚症状が典型的な症状である。そのうち、自発腹痛は、疼痛を表現しうる年齢であれば、虫垂炎の殆んど全てにみられる最も基本的な症状である。また、局所圧痛及び筋性防禦は、虫垂炎に特徴的なものであることから虫垂炎の診断上重要な症状とされている。局所圧痛については、マックバーネ点やランツ点が圧痛点として有名であるが、この他に、ローゼンスタイン症状、ブルンベルグ症状、ロブシング症状等の間接症状があげられることも多い。しかし、これらの間接症状は、マックバーネ点等の圧痛点に比べ、発現頻度は必ずしも高くなく、また、はつきりしないことも多いため、補助的なものとされている。白血球の増多、核の左方移動は、虫垂炎の所見として重要であるが、虫垂炎に特有な症状ではなく、他にも白血球の増多を示す疾患は数多くあり、これのみでは虫垂炎の診断を下すことはできない。むしろ、腹部の所見に比べ非常に多い白血球を認めたり、三八度以上の高熱があるときには、他の疾患を疑うべきであるとされる。発熱や悪心嘔吐も虫垂炎の重要な症状であるが、これも虫垂炎に特有な症状ではない。なお、小児虫垂炎では穿孔を生じやすく、腹膜炎に移行することが多い。

以上の事実並びに鑑定の結果及び証人志賀厳の証言に基づき、中島医師の診断の適否について考えるに、正章は、昭和五二年四月一二日の診察の時点では、発熱及び嘔吐の症状は認められたものの、主訴に腹痛を欠き、右下腹部の圧痛、筋性防禦を認めなかつたというのであるから、同日、中島医師が虫垂炎と診断できなかつたことをもつて過失があるということはできず、扁桃の発赤及びアセトン尿を認めたことから、扁桃炎とこれに誘発された自家中毒症と診断したことはやむを得ないことであつたというべきである。また、同月一三日の診察においても前日の血液検査の結果、白血球の増多、核の左方移動が判明したほかは、症状に変化なく、自発腹痛等の腹部症状は認められなかつたというのであるから、白血球の増多のみから虫垂炎と診断できないことは前記のとおりであつて、この時点において、正章を虫垂炎と診断できなかつたこともまたやむを得ないものというべきである。

原告らは、中島医師は、ローゼンスタイン症状をはじめ、筋性防禦や圧痛を十分に検討するとともに、レントゲン検査を補助的に施行し、さらに、正章を入院させて十分な病状管理を行なうべきであつたと主張するが、ローゼンスタイン症状は、前記のとおり発現度は必ずしも高くなく、はつきりしないことも多いため、補助的な診断方法にとどまるものであつて、これを確認しないからといつて、直ちに、中島医師に過失があるとはいえず、他に、中島医師の筋性防禦や圧痛の確認方法に不適切な点があつたことを認めるに足りる証拠はない。また、<証拠>によれば、腹部単純レントゲン撮影が虫垂炎の診断方法として用いられることがあることを認めることができるが、腹部単純レントゲン撮影は、前にあげた圧痛の確認等に比べると必ずしも虫垂炎の診断方法として一般的なものではなく、補助的な診断方法とされていることが認められること及び前記認定のような正章の所見に照らしてみると、これを施行しなかつたことをもつて、中島医師に過失があるということもできない。さらに、入院措置の点についても、前記認定のとおり、右時点では正章の症状はさほど重篤とは認められなかつたこと及び原告伊藤光子本人尋問の結果によれば、正章の自宅は、河北病院から徒歩数分のところにあつて、来院が容易であり、従前から、原告光子は正章の症状が軽い場合でも来院をいとわなかつたことが認められることを考えると、小児虫垂炎は病状の進行が早いとされていることを考慮しても、中島医師が入院措置をとらなかつたことをもつて過失があるということもできない。

以上のとおりであつて、中島医師の診察に関し過失があるとの原告らの主張は認められない。

三次に、原告らは、正章の手術を施行した山内医師に、虫垂剥離にあたつて十分に視野を拡大しなかつた過失、虫垂の癒着状態、血管脆弱化の有無等を十分に考慮しなかつた過失があると主張するので、以下、この点につき判断する。

正章の手術中に、山内医師が患部を用指で剥離していたところ、動脈から四四四八ccという大量の出血を来たしたことは前記のとおりであり、通常の虫垂切除手術ではこのような大量出血はありえないこと、出血部位とされる盲腸の左裏側には、通常、これ程の大量出血を来たす動脈は存しないことは当事者間に争いがない。しかしながら、<証拠>によれば、正章は、手術時には虫垂の穿孔による汎発性腹膜炎を起こしており、虫垂周辺の組織は癒着し、強い炎症を起こしていたというのであるから、血管が脆弱化し、出血しやすい状態にあり相当の注意を払つて剥離を行つても出血の事態を招来する蓋然性が高く、しかもいつたん出血したときには止血も困難な状態にあつたと考えられること、さらに、出血量についても、止血成功までの四時間にわたる出血量であることが認められること並びに鑑定の結果及び証人志賀厳の証言に照らしてみると、前記事実のみでは、原告ら主張のような過失があつたことを認めることはできないし、他に、山内医師の行なつた剥離及び止血方法に不適切な点があつたことを認めるに足りる証拠もない。なお、<証拠>によれば、山内医師は、当初、交錯切開法により開腹したことが認められ、<証拠>によれば、交錯切開法は、腹直筋外縁切開法等の方法と比べ、視野が狭く、また視野の拡大が困難であるとされていることが認められるが、本件においては、<証拠>によれば、山内医師は、開腹後、大量の濃性滲出液を認めたため、直ちに筋層を切開し、斜切開により視野を拡大したことが認められるのであるから、この点につき過失を認めることはできない。また、原告らは、山内医師は過剰輸血を行つた旨主張し、<証拠>によれば、正章は、手術後の血液検査の結果、血色素量が24.2グラムパーデシリットル、赤血球数七一三万と血液が濃縮された状態となつていたことが認められるが、<証拠>によれば、山内医師は、重量法によつて正章の出血量を測定し、出血量に応じ輸血を行つたことが認められ、右の措置に特段適切を欠く点は認められないから、原告らの右主張もまた理由がない。

以上のとおりであつて、山内医師の手術に関し過失をいう原告らの主張も理由がない。<以下、省略>

(白石悦穂 窪田正彦 山本恵三)

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